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ハワイへの憧れ、観光地としての夜明け-ハワイの歴史(2)

ハワイ州誕生50周年記念特集 ハワイの歴史 第2回
欧米人のハワイへの憧れ、観光地としての夜明け

 0108_top.jpg タヒチから人々がやってきた12世紀初頭以降、長い間、外部との交流がなかったハワイの人々は1778年、英国人の探検家ジェームス・クック船長によって「再発見」され、西洋社会にその存在を知られるようになった。欧米人との新たな出会いは、群雄割拠していたハワイの社会組織に大きな変化を及ぼし、カメハメハ大王の強大なハワイ王朝の誕生をうながした。世界の人々がハワイの存在を知るようになり、やがて夢と好奇心いっぱいの「観光客」を乗せた船が到着するようになる。ハワイは、新たな旅人を迎えていく。(取材:宮田麻未)

 

ハワイに魅せられたマーク・トゥエイン 

 0108_01_kajita.jpg 旅人のなかには世界的な文豪や名優も多く、人々の憧れをかき立て、楽園のイメージ確立に一役を担った。彼らの名言や描写、さらにその背景となる時代の変遷を垣間見ることで、ハワイの魅力が再認識できるとともに新鮮なインスピレーションが得られるだろう。そんな影響力のあったひとりが、「トム・ソーヤーの冒険」などで有名なマーク・トゥエイン。作家として認められはじめたばかりの1866年に4ヶ月ほどハワイ各地を旅行し、カリフォルニア州の新聞『サクラメント・ユニオン』に、25本もの記事を送り出した。

 トゥエインは、朝霧に包まれて海の上に浮かび上がるダイヤモンド・ヘッドの美しさを「長い航海の果てに、ハワイが私を歓迎してくれるかのようだった」と記し、「知れば知るほどハワイが好きになる」と、急速にハワイに魅せられていった。馬に乗ってキラウエア火山へ登った際には、夜空を染める溶岩の明かりを「何世紀もの間、砂漠をさまよっていたイスラエルの民を導いた『円柱の炎』とはこんなものではなかったか」と表現し、その神々しさに深い感動を覚えたという。また、1790年にカメハメハ王と宿敵のマウイ王カラニクペレとの決戦の舞台となったマウイ島のイアオ渓谷については、「太平洋のヨセミテ」と絶賛。このほか、コナ・コーヒーのおいしさなど、後のハワイ観光の人気ポイントを押さえ、アメリカ人の関心を大いにかき立てた。

 トゥエイン以上に、「ハワイ観光」のきっかけを作ったのは、英国人イザベラ・バードが1875年に出版した『ハワイ紀行』だ。日本や中国、チベット、李氏朝鮮などを旅して、明快な語り口で「異国」を生き生きと描写し、欧米中に名声をとどろかせていた女性旅行家だ。1872年にハワイへ渡り、6ヶ月間、滞在して、モロカイ島やカウアイ島まで訪れている。ビッグ・アイランド(ハワイ島)ではヒロでの生活の楽しさを語り、カメハメハ大王が少年時代に隠れ住んだといわれる聖地、ワイピオ渓谷の神秘さなども詳述。「ハワイで過ごした半年はとても幸せなものだった」と述べたバードは、「楽園」としてのハワイのイメージを広く世界に知らしめたといって良いだろう。珊瑚礁の青い海、ココナツの木、マンゴーの林、ハイビスカスの花といったハワイの「憧れのキーワード」も、バードの旅行記によって欧米社会に広がっていったのだ。


憧れのハワイ旅行の開花と、熱烈に歓迎するハワイの人々 

 0108_02.jpg カメハメハ大王によってはじまったハワイ王朝王国は、1893年に起きた革命によって転覆、サンフォード・ドールを大統領とする「ハワイ共和国」となった。その後、1898年にはアメリカのウィリアム・マッキンリー大統領がハワイの米国併合を宣言。皮肉なことに、このハワイ王国の消滅が、アメリカ本土に一種の「ハワイブーム」を巻き起こす。

 ハワイ共和国時代には、ワイキキの海岸周辺のタロイモ畑や養魚場に対して、「土地の改良ができないのなら、使用権を放棄しなければならない」とする法律が作られ、周辺の土地は白人の有産階級の手に移っていった。これが、観光ビーチとしての開発がはじまったきっかけだ。このうち、酒類の販売で資産を築いた英国人のウォルター・ピーコックは、「高級リゾート地としてのハワイ」の将来を見通し、ワイキキの海辺にあった自分の別荘を改造して1901年、エレガントな5階建てのコロニアル様式のホテル、「モアナ・ホテル」(現モアナ・サーフライダー・ウェスティン・リゾート&スパ)を建設。客室は75あり、自家発電装置を備え、エレベーターもついていた。当時の最新技術が生かされたホテルだった。屋上庭園からは360度さえぎるもののないオアフ島の南海岸の風景を満喫できた。

 そして1903年に「ハワイ宣伝委員会」(後の観光局)が設立され、アメリカ本土からリゾート客を招き寄せるマーケティング・プロジェクトが始動。その中心となったのは米国のオーシャニック汽船(OSC)だ。OSCは1880年代からカリフォルニアとハワイの間を結ぶ客船航路の宣伝を開始し、1901年には3000人、1918年には8000人の観光客が訪れるようになった。ハワイの人々にとって、汽船の到着は観光客ばかりでなく、本土からの便りや珍しい物を運んでくる「特別なもの」だった。ダイヤモンド・ヘッドの展望台から「汽船が近づいて来る!」という知らせが届くと、港ではバンドの演奏や色とりどりのレイを手にした人々が待ち受けていたという。

 

映画スターの華やかなハワイ旅行 

 0108_03.jpg ハワイ航路の黄金時代は、1925年にマティソン汽船が豪華客船マロロ号を就航させたことに始まる。1927年には、「ピンクパレス」という愛称で知られるホテル、ロイヤル・ハワイアンがオープンし、マロロ号で到着する贅沢な旅人を迎えることになった。1930年代の初頭までに、マティソン汽船はOSCやロサンゼルス汽船を併合し、ハワイ航路をほぼ独占するようになる。当時、ロサンゼルスからハワイまでは約5日間の航海で約125ドルという高額な船賃は、ハワイ旅行を「ヨーロッパやアメリカの富豪たちの楽しみ」にほぼ限定することになった。このハワイ航路の黄金時代は、映画産業が繁栄したカリフォルニアの黄金時代とも並行し、クラーク・ゲーブルやシャーリー・テンプルといったスターたちのハワイ旅行が、一般のアメリカ人の「ハワイへの憧れ」をさらに膨らませていった。

 1929年の大恐慌でハワイへの観光客は一時激減するが、マティソン汽船の親会社であるキャッスル&クック社は米国本土を中心に大規模な宣伝活動をはじめる。その一つとして、1935年から始められたラジオ番組『ハワイコール』は、モアナ・ホテルの中庭から世界750以上のラジオ局を通じて放送され、以後40年も続く超人気番組となった。ラジオを通して聞こえるハワイの波の音とハワイ音楽が、ハワイの観光産業の発展に大きく貢献したことはいうまでもないだろう。同じ1935年にはパン・アメリカン航空が初の太平洋横断路線を就航させ、サンフランシスコ/ホノルル/マニラ/香港を結ぶ定期便が運航。汽船で5日間かかった太平洋の「彼方の島」への旅は21時間半に短縮された。そして、ハワイ観光は急成長の時代へ向かう。

写真:ハワイ州観光局

 

今週のハワイ50選

カメハメハ大王(ハワイ全島)
ダイヤモンド・ヘッド(オアフ島)
キラウエア火山(ビッグ・アイランド)
イアオ渓谷(マウイ島)
コナ・コーヒー(ビッグ・アイランド)
ヒロ(ビッグ・アイランド)
ワイピオ渓谷(ビッグ・アイランド)
ワイキキ(オアフ島)